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プレイヤーズ インタビュー

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阿部伸行「背番号16はその可能性を諦めてはいない」


阿部伸行
背番号16はその可能性を諦めてはいない


阿部伸行、10年選手として小平に帰還した現在も課題に向き合い、成長を実感する日々。

◆響いた浜野征哉GKコーチの言葉

プロ生活15年目を迎える2021シーズン、阿部伸行はFC東京に戻ってきた。14年前とは異なり、多くのクラブで経験を重ねたうえでの帰還。試合に出られないときにも諦めず正キーパーとして何度も出場機会を掴んできた。そのメンタリティはどのようにかたちづくられたのだろうか。

東京のアカデミーで育った阿部は流通経済大学を経て2007年トップチームに正式加入。しかし出場機会を得られず、2010年かぎりで小平をあとにした。

湘南ベルマーレへと移籍していくこのときの最後に、当時の浜野征哉GKコーチ(現浦和レッズ)から言われたことをよく覚えている。

「『とにかく毎日公式戦だと思ってやってこい』と言われたのを覚えています」

それまでの4年間は常に遠慮がちだった。日本代表の土肥洋一(現レノファ山口FC GKコーチ)、流通経済大学の先輩である塩田仁史(現浦和レッズ)のレベルが高く、太刀打ち出来ないと感じていた。

「あまりにも自分とかけ離れていると感じて、勝手に自分は修行の身なんだという位置づけにしてしまった。毎週末、試合がすぐそこに待っているのに……諦めているわけではないんですけれど自分のなかで序列をつくってしまったのがよくなかった」

考えようによっては、競争で土肥に勝てば自分は代表クラスに成長したということになる。しかしそこを目標に据える発想がなかった。
「ここを越えたらどうなるかというよりも追いつくことだけを考えて“追い越す”が、答えになかった。それがまずかった」

2011年、新天地で活動を始めた阿部には、今年試合に出られなかったらサッカーをやめないといけなくなるだろうという想いがあった。そこで思い出すのは浜野氏の言葉。その意味を噛み締め、実践しようと決意した。

「『毎日、公式戦のように準備して、毎日そういう精神状態で練習をやってみろ』というのが最後に言われた言葉でした。毎日が試合であるなら最初の練習が1節、二日目の練習が2節という感じでやってみようと、そういうモチベーションで取り組んでいたのを覚えています」



◆2011年の蓄積が翌年に実った

湘南に加入してシーズンを迎える頃、東日本大震災発生した。チームは一時活動休止に追い込まれ、練習への参加は個々に判断することになったが、阿部はその状況で毎日練習場へと足を運んだ。

「地震が危ないと思い、みんな練習に来なかったときも、自分はグランドに出続けて当時のゴールキーパーコーチとずっと練習をしていました。そのときにいいものを培ったと思っています」

試合がなく目標がなくともグランドに立ち続けることで、内面的な強さ、プロのゴールキーパーとしてしぶとく出場機会を狙い続けるメンタリティを獲得した。

「2011年が運命の分かれ目でした。とにかくあの一年間で肉体的にも精神的にも鍛えられ、それが2012年の頭から出たのかなと思います。このままではシーズンオフにサッカーをやめることになってしまう。
でも、毎日モチベーション高く、試合だと思って練習に出続ける。たとえ声がかからなくてもピッチに立ち続ける。そのサイクルが一年間続きました。夏頃に一度天皇杯で出場機会をもらえて、しかも試合に勝ったんですよ。それはひとつの自信になりました。こういうサイクルでやっていけばひとつチャンスがもらえるのだと確信できましたし……」

最終的に37試合に出場し、J1昇格に貢献。しかし翌年の2013年は途中でポジションを空け渡し、出場試合数は13にとどまった。正キーパーでなくなった瞬間は、一度掴んだものがあれば必ずや再起出来るという確信を持ち得ていなかったという。

「しっかり腐るというか、人並みに落ち込む時期はありました。2011年にちゃんと出来たというのは、あくまで試合に出る前までの自分であって。またポジションを失ったときには、しっかりブレている自分がいましたね。情けないですけれど」

心機一転、今度はギラヴァンツ北九州へ。ここでは在籍した2シーズンとも先発とサブが交互にやってくる状況が続いた。既に底は脱し、練習でよければ使ってもらえるという環境で、緊張感を保つ日々だった。

「一度は正キーパーを経験し、確固たるものをつくったな、と思っても、そこまでではない。やはりつらい試合を経験したら落ち込む。でもゼロになることはなく、ある程度のところで戻すことが出来る。その気持ちは今でも大事だと思います」

下げ止まりと反発力。継続して鍛えてきた証だろう。

「それまでの蓄積がなくなるということはないんです。アクセントを加えたり、考え方の幅を広くしたりして次の可能性を高めていく。自分を許してあげることも大事だと思います。出来ないことをいつまでも直視して落ち込むより、肩の力を抜いて次に向かう。若いうちは、そうは思えなかった。許したら負けだと思っていました」

この変化こそが、第2キーパー、第3キーパーとなってもキャリアを重ねていくことが出来た要因なのかもしれない。



◆東京でも続く挑戦の日々

そして2021年。FC東京U-18の選手を数多く含むメンバーで臨んだある日の小平での練習試合で、阿部はひと回り年齢の違う若い選手たちを鼓舞しながら、これ以上は失点させないぞというオーラを発しているように映った。
しかしピッチの内側では、反省することが多かったという。

「あの試合はほんとうに、良くなかった。ユースのコーチとお話をさせてもらいましたが、相当落ち込みました。若い頃もそうでしたが、年齢を重ねて帰ってきても、まだまだ全然一流じゃないな、と……。
東京は基本的に負けることが許されないチームです。絶対に勝つチームでないといけない。紅白戦にも勝敗にこだわってやっているなかで、どんなメンバーであろうが同じエンブレムをつけている以上はたとえ練習試合であっても負けられないということをチームメイトに伝えられなかった自分にも責任がありますし、純粋に個人のプレーで守りきれなかったということもある。二つとも課題だなと思います」

重要な失点場面は個人で抜かれた結果で、そこだけを見ればゴールキーパーとしての過失は少ない。だが、チームを束ねるべき年長者としては、伝えきれなかったことが、その抜かれた局面のわずかな反応の弱さに出たと考えるべきなのだろう。

「後半から右サイドに新しい選手が入っていました。その選手に何もコミュニケーションを取らず、頭から試合に入ってしまった。思い起こせば前半までは同じ時間を同じベンチで過ごしていたのに、そこでほとんどの選手と会話をしていなかった。過去に自分がサテライトに行ったときの経験を思えば、途中から入る選手がナーバスになるのはわかっていたはずなんですよ。

もちろん、一歩グランドに入ったらそういうことは一切関係ないですよ。でも小さいことから気を遣えず、個人としてもちゃんとプレー出来ずにあの試合を終えたというのは、やはりよくなかった。それだけにこれからしっかり見つめ直して、今後に活かしていきたいと思います」

ゴールキーパー単独のセービングやクロス対応、ピッチ内でのコーチング。しかしそれ以外の時間の気配りや繊細さが試合の内容に関わってくることをあらためて認識した。それが勝つ確率を変えるのだと。

「ぼくが高校でサテライトに行ったときにたまたまユキさん(佐藤由紀彦、現在トップチームコーチ)が調整で来ていたんですよ。その試合前、やはりアカデミーの選手に話しかけてくれていましたね。その当時の事がふと思い浮かんできました」

即席のメンバーであれば、個々がいいところを見せたいという気持ちを活かし、それぞれの良さを出してチームにしていくことでより良い戦いが可能になる。それもサッカーの試合が持つひとつの側面だと、37歳を迎える今年に認識を深めたことは収穫だった。
それだけでなく、自身のパフォーマンスについても向上が見られるという。

「日々、成長を感じています。色んな角度でですけれど、特に動く身体をつくるという意味ではその実感の度合が強い。吉道さん(フィジカルコーチ)がマンツーマンで見てくれて、少しでもフォームが乱れていたらすぐ修正してくれる。30代に入ってから、今が一番良い状態です」

開幕前に掲げた『まず1試合に出る』という目標は変わっていない。コロナ禍の時代であればこそ、いきなりメンバーが変わる不測の事態もありうる。常に抜かりのない準備をしておく必要があるのだ。

「5年くらい前にふらっと小平の練習試合に来たことがあるのですが、ファンの方の顔ぶれが変わっていなかった(笑)。懐かしい方たちにいいところを見せたいという気持ちもあります」

プロキャリア15年目にしてフレッシュな日々を送る阿部。ぜひ彼の勇姿をピッチ上で目撃したいものだ。背番号16はその可能性を諦めてはいない。



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